障りとの戦いは、どこかで難局にぶち当たる。
消す努力しとるけど消えない人もおれば、被害をくい止められない障り持ちもおる。
障り持ちは、消す努力しとる人は別として、一般的には叩くべきなんよ。
相手が悔い改めるか否かは別として、その動きを止めることに意義がある。
先日見終わった大河ドラマ足利尊氏には、いろんな障り持ちが出てきたんじゃけど、障りの観点がないんよね。
その中で、真面目に努力しとるやつがままおるんよね。
そういう人らだけでも障りの視点を持てば、あるいはもうちょっと障りのない人らが巻き込まれる悲劇は減ったかなと。
私の周辺も、障り持ちがトラブル起こすことは絶えず、しかし私の本や話で障りが消えた人は、それはそれで揺るがない。
私の本や話で障りが消えないやつらは、動きが逆じゃけえ、しばらく会わないと以前とは距離が広がる。
インチキ放射能手抜き測定野郎、n崎n詐欺なんかもそうじゃのう。
私に出会い、民族やら障りの話を聞いて衝撃を受け心酔するも、それを自分の不倫恋愛のためだけに使い、方向性が相当ズレたことで、しばらく放っておいた。
それがしばらくぶりに向こうから連絡をとってきたかと思ったら、福島原発の安全性を訴えて一緒に福島の放射線を測ろうとか言う始末。
愚にもつかない話じゃが、断ると決闘じゃと言う。
決闘に負けたら一緒に測れって話。
福島は危ないと思うて逃げた人間に、戻って測れと言うこと自体どうにかしとる。
行動原理の基本が心の障りじゃけえ、発想が真逆。
時間と共に別方向に行きよるけえ、しばらく会わんとかなり遠くなるのう。
こういう消えない障りとの小競り合いは、時として難局を生み、障りの認識がある人でも逃れられんし、ましてや認識のない人は被害が拡大する。
いろいろ手を尽くして、それでもたち現れて来よる難局は、それはそれで修行課題なんじゃろうと思う。
障りの観点のない人は、観点のある人なら避けられる障りをも食ろうて苦しむんじゃけど、その苦しみとの対決1つ1つが修行課題。
しかし、それに気づいた人らは障りの観点があっても避けきれない難局との対決だけになる。
どちらが生産的かは明らか。
より高度な世界を目指すべきじゃなかろうか。