行は意識して努力し、何かに打ち込むことを言うのが一般的。
しかし広い意味からすれば、無意識でやっとることもそれなりに重なって仕事をしよるけえ、それらも行と言えるかもね。
私が気功の修行をし始まったのは17歳で、本格的には大学入学の18歳から。
以来、自分を高める意味での行を積んできた。
17歳以前は両親に邪魔されて苦しめられとったんじゃけど、それなりにもがきながら解決材料を探し、周囲をいろいろ観察はしとった。
そういう意味では、幼稚園以前から行を積んできたことになるかのう。
勿論、幼少期の私の行など、とるに足らんもんなんじゃけど、それが今日の基礎にもなっとる部分があるにはある。
私は大学時代、実家の脅威から逃れ、打ち込むもんができたことを嬉しく思うた。
そして、バイトや気功修行、速読、仕事、出版、外国語学習、作曲、悪の撃破、農業といろいろ取り組む中で、それらに対し行を積んできた。
時折、転職や原発事故などのアクシデントはあったものの、経験をほとんど肥やしにした自負はある。
仲間内も皆、心の障りを統御しつつ実力を上げる意味での行を積んでおり、ドロップアウトした人らは、そうした姿勢について来れんかった。
中には真逆の方向に進み、撃破される側になったセシウムカルトのn崎もおる。
悪の撃破も、心を乱さずに事務的にやることは、健全な世界の拡大や正義いう意味で、行を積むことになる。
悪を為さないこともさることながら、悪を撃破しひねり潰すことも、ポイントとして跳ね返ってくる。
もともと信用しておらず、駒としてしか利用を考えとらんかったn崎が、セシウムカルトになって襲いかかろうと、悪の撃破いうことで利用するだけのこと。
他にもやらにゃいけんことで、行は積んでいかにゃいけん。
仲間内でせつないとこで行を積んどるのが、関西への脱出を考えとる人ら。
その成否は神のみぞ知ることなんじゃけど、結果に関わらず行は積むべきじゃ。
それで武運つたなく敗れようと、努力した事実は消えん。
今回の人生ではダメでも、来世以降役に立つこともあろう。
今の状況で最大限の努力をしとると言えるかを問いながら、行は積むべきなんよ。
努力の余地が大きな場合は、それだけ実りは少ないことになるんよ