六崎太朗の0ヘルツ波動

波動強化人間としての波動パワーを駆使したあれこれ、健康や農業などいろいろ応用可能です。

3.11から6年、それぞれの転機となった東日本大震災と福島原発事故。災害や事故に対する備えは、大都市はもろい。自衛の手段を考えざるを得なくなった。

東日本大震災福島原発事故から早いものでもう6年、私にとっても転機になりました。

地震当日、私は新大久保の職場におり、揺れがかなり長かったのを覚えております。

震度5だったんじゃけど、鉄道が止まり電話も止まり通信手段はツイッターだけ。

帰宅難民が溢れました。

また、その後食料品が不足したりして、大都市のインフラのもろさを実感しました。

幸いインスタントラーメンを備蓄してあった関係で、なんとかしのげました。

震災で長い距離歩いて帰ってホッとすると、今度はニュースでさらにヤバいことが。

福島原発が制御不能じゃいう話。

ふくしま、げんぱつ?

えっ?そ、それがどうしたって?

正直、わけわからんかった。

福島に原発なんてあったんじゃ、あったとしてそれが何で今頃どうだって言うんじゃ?

そうこうするうち、爆発。

な、な、な、何~っ、ば、爆発じゃと~っ?

うわわ、これはヤバい。

早う皆んな逃げえ!!!

仲間内に退避指示を出し、急遽名古屋に逃げました。

いいな、むっちゃんは逃げられて。

亡くなった菊池さんの言葉が、未だに耳に残る。

その後、福島原発放射性物質が関東に流れてきた。

菊池さんはその時の雨でずぶ濡れになり、半年後多臓器ガンで帰らぬ人に。

仕事で動けん人たちばかりで、いざという時でもなかなか動けんて思うた。

タイムマシンがあったとして、例えば広島の原爆の日の前に行ったとして、明日大変なことになりよるけえ、逃げえって言うても、おそらくそのままなんじゃろう。

出口王仁三郎の予言を信じて広島から逃げた人は難を逃れたんじゃけど、その時点で動けとらん人はある意味でそういう運命なんかもしれん。

私は東京に住んでおりながら、放射性物質が関東に来た時にはなぜか全部避けた。

いや、避けられた。

あの時は、ほんま大きな意思を感じた。

まるで計ったかのように、ピタピタと西への遠出があり、それをその前の月に決めていた。

しかし震災の影響は、逃げた西日本でも出た。

広島辺りの電車が、間引き運転じゃったんよ。

えっ?なんで間引き運転なわけ?って思うた。

当時の広島は、酷鉄広島って言うぐらい国鉄時代の車両が多く、国鉄量産型の115系ばかりじゃった。

これは全国規格じゃけえ、部品を東日本で作っており、その影響を受けた。

このように、国は全国で回っとる要素も多分にあり、インフラはその微妙なバランスの上に成り立っとる。

こうしたことも踏まえて、生活物資が途絶えたら、それこそ大変なことになる。

あの災害や事故は、私にそうした文明の危うさをイヤと言うほど見せつけた。

それに備えて、食料の自給を目指したり、バイオマスの活用に力を入れるようになったんよね。

危機意識があってできた、原発事故での退避。

危機意識があって、今また農業。

ともあれ、そうしたことができたことに感謝の毎日です。