不射の射いう話があります。
これは弓の名人の話なんじゃけど、どこまで本当の話かわからない。
紀昌いうおっさんが、飛衛いう師のもとで修行することから始まる。
風でパラパラ落ちる柳の葉を、かなり離れたとこから射落すとかを最初目指しとった。
師は、まばたきをやめる修行をせいって言う。
紀昌は、嫁さんが機織りする下に潜り込み、それを目で追いながらまばたきしないぐらいの状態になる。
さらに師は、小さいもんがでかく見える修行をせいって言うた。
すると今度は、シラミを髪の毛で結わえたもんを見続け、そのうちそれが大きく見えるようになった。
そんで街へ出かけると、人も家畜も山のような大きさに見えた。
それを聞いて師は喜んだ。
ある日、その師弟は原野で会うた時、お互いの弓で射合うた。
放たれた矢は、お互い先端が当たって落ちるをくり返した。
しかし、師の方の矢が無くなり、紀昌が残り一本の矢を放つと、その矢を口でくわえたか、野バラでたたき落としたかして防いだ。
そんで、師弟はその技の進展に関して喜び、抱き合うて泣いた。
師は、さらに強くなりたいかと問い、それならここへ行けと言う。
そこに行ってみると、弓矢を使わずに弓矢を射るような仕草だけで鳥を射落す老人がおった。
この不射の射は、本当かどうかは別にして、真の達人は道具を選ばないいうことを示しとるんよ。
それで言えば、私なんかもまるっきり道具がなければ、やはり何もできんのよ。
しかし、道具を選ばずにある程度のことはできるような領域にはおるね。
雑草の生い茂る原野や石ころから、独自の農業や波動グッズである賢者の石なんかを作ったりした。
まるっきり道具を使わずに何かをすることが、果たしてできるのか?
まあ、たとえできたにせよ、それは目指すべき世界じゃないのう。
やはり、物質を介在して生きる以上、その中でいろいろやってこそ正しいんよ。
ただ、その中で道具を選ばない領域まで達することは、目指すべきじゃと思う。
完全な無からは何も生まれない。
しかし、限りなく無に近いように見えて、そうでもないものはある。
それを見出し活用してこそ、技の進展に貢献するんじゃないんかねぇ。
私のやりよる農業も、無農薬無肥料。
原料は草だけなんよ。
それで豊かな実りがある。
ほぼ無から有を作ったように見えよう。
賢者の石も、何の価値もない石が原料なんよ。
こういうほぼ無からいろいろ作り出せれば、それはいろんな価値を生み出していけるじゃろう。