空の心を会得した者が仲間内に出て、早速オルゴンMとか前やんが動き出した。
さすがにそこらへんは早い。
ただ、しかし、ぽんたたちの会得したもんは彼らの認識の中のもの。
その限界はある。
しかし、導入部分は間違いなく通りよる。
どれぐらいの出来なのかは、変身技で彼らと私のを比べれば、その差がわかる。
まあその領域に入ったばかりで、右往左往しとるのはわからんでもない。
私の方が使い慣れしとる。
というのも、習うた人らはみんな虚の要素は虚の要素で一つ、空の心は空の心で一つ、真人なら真人で一つって思いよるんよ。
それぞれブツ切れでバラバラに、頭の中で存在しよるんよ。
しかし、そうでもないんよ。
虚の要素は空の心と連動しとるし、空の心を会得したぽんたの虚の要素は見違えるように向上したし、もっと言えば空の心と真人も連動しとるんよ。
な、何~っ!って思うかもしれん。
しかし、連動してます。
てか、連動しとらんかったら成り立たんのよ。
仲間内の皆さんは、変身技を中心に真人をよく意識しております。
アクマイザー3のザビタンの魔法力での変身技、魔法力化けるんだら~××の真人バージョン!
みんなしてやっております。
特に、運気低下の要因の一つであるバイオリズムの低下の時、自己波動真人バージョンになってエネルギーのリークを防いでおります。
それだけ普及しとるにもかかわらず、真人自体の理解がどこまでかはあやしいんよね。
そもそも真人は臨済宗の奥義であり、人の心に住む真人に関して、老若男女の区別もなく時間にも束縛されない融通無碍な存在とする。
この世ではいろんな属性がかぶさり、そのことで自己発揮ができるものの、その属性がとらわれとなって動きが不自由になることもあるんよ。
3歳の子供がいきなり50歳の大学教授にはなれんし、男として生まれれば自分の子宮で子供を産むこともできない。
真人には、そういうこの世での束縛やとらわれがない自由さがあるんよ。
それは、空の心の深まりには不可欠なんよ。
なんで空になるん?
在るようでいて無く、無いようでいて在る、そのビミョーなところがわからんなら、空の心自体がわからん。
さらに会得した空の心も、その自由性をどこまで想定できるのかが、その動ける範囲となる。
真人を悟ることは空を悟り、空を悟れば必然的に虚となる。
また、それ以外に執着を断つこともこれと関連する。
生きる上では、お金や物質は必要。
しかし、いつ何時そうしたものを失うかもしれん。
もっと言えば、肉体の命も突発的な事故でいつ失うかわからん。
それゆえ、それらにしがみつきたくもなるんじゃけど、そうすると執着となりとらわれを作る。
全く意識せずに放り出せば、全ては無に帰しそれもそれで修行にはならん。
放り出しはせんものの、執着しない。
このビミョーなラインを継続してこそ、成功があるじゃろう。
その最良なところが、中道なり中庸なんよね。
その最良の中道は、有より無に近いとこにある。
真ん中ではないんよ。
そこらへんを練り直せば、会得した人らのそれは、かなり精度が上がるじゃろう。
導入部分を知りたい人は、次回7月の勉強会で説明します。
それまで待てん人は、ぽんたに聞いて下さい。