予め断わっておきますが、私らは宗教ではありません。
宗教にするつもりもありません。
修行する人の集まりです。
人生の難問を解決するべくの修行です。
そこんとこ宜しくです。
さて、易行道と難行道に関してちょっと考えました。
易行道は、ある意味誰でもできることなんよ。
聖書なら聖書を読んで、ああええこと書いてあるわって、それを覚えてそう生きましょうとかね。
仏教だと、何も考えずに念仏を唱えるだけでええとかね。
まあ難しいことはわからんけえ、とりあえずできること言うたらこんなかな。
イスラム教になると、作法や戒律を覚えにゃいけんし、礼拝の義務があるんで、そういう行動面でのハードさがある。
そういう意味では、キリスト教よりは難行かな。
仏教でも、特別な奥義とかになると、それこそ密教とかになるんよね。
神格を得るには、ある程度の悟りと信奉者が必要らしいんじゃけど、悟りは高いもんを得るのは難しく、それゆえに人から理解されにくい。
逆に易行道なら、みんなわかるし伝道が進みやすいけえ、知名度が上がりやすい。
現にキリスト教信者は、20億もおる。
キリスト自体の悟りがどうじゃったかいうこともあるんじゃけど、持っとるもんを全部出す前に処刑されてもうた。
あれでもう少し長生きして奥義を開示して死んだら、難行道になって信者も今ほどおらんかったかもしれんのよ。
ハードなわりに頑張ったのが、イスラム教なんよね。
戒律を細かく定めたのが、よかったと言えるかも。
何をどうやったらええかわからん人に、とりあえずこうしとけって言えるイスラム教は、行動指針を示す意味でよかったんよね。
人間簡単なことしかわからん人は多いし、難しいことわかる人は少ない。
私らの技も、明らかに個人的資質がモノを言うんよね。
本を読んで字面で引き寄せられた人らも、だんだん技の習得に関してダメな人が脱落していき、残った人は相当な使い手になる。
先輩後輩で、実力が逆転することもある。
新参の頃は誰もペーペーなんじゃけど、ある程度の時間が経ち最小限のもんを得たら、あとはその人の実力がモノを言う。
我ながら、かなり高度なこともやりよるって思います。
いろいろ習得した人らは、だいたい横並びになって得意分野と不得意分野があるいう感じなんよ。
逆転劇でわかりやすかったのが、前やんとYさんよね。
新参じゃった頃の前やんは、早く追いつこうとして頑張り字面でしかわからんYさんに聞きながら、Yさんが理解できんとこまで理解して表面的な技では最強になった。
私の話も、字面だけのもんであれば、脱落者もなく今より多かったかもしれん。
しかし、実力のない人大勢よりは、少数精鋭の方がええわ。
山の頂が低いと登りやすく、それだけ人が群がる。
しかし、高いと登りづらいし登れん人は脱落する。
六崎山は高いのよ。
顕教の最澄の系統の方が、空海の密教の系統より発展したのは、顕教の方が易行道じゃったけえなんよ。
私は人類全部を救う気はないし、救えるとも思わない。
逆に救うちゃいけんやつはおり、そんなやつらは可能な限りシゴウしてやろういう考え。
技の理念がわからん人は要らんし、無理にわからす気もない。
わかってついてこれる者だけ来たらええわ。
低い山で甘んじて人を増やすより、わかる人にだけいろんなもんを渡そうと思うとる。
たくさんの人が集まっても、易行道しかできん人に、難しい話をしたところでその人らは変わらんのよ。
そんな人らには信奉されたくないわ。
易行道なら、他へ行って欲しい。
奥義は、誰にでもできんけえ奥義なんよ。
逆に、できる人は遠慮せずに来て欲しい。
それで周囲が変わるなら、変えて欲しい。
そういうことです。
修行は厳しいことが多いんよ。
特に難しいことはね。
全部を救おうとするのが宗教です。
それは無理じゃし、私はしません。
世の中、そんなに甘くはないんよ。