どんなことにも確率や比率があって、その中で完結する分にはそれまでの環境を変化させない。
社会は、普通と言われる人多数と変わり者少数から成る。
例えば、麻雀を一生懸命やる人はそんなにおらん。
つまりやらん人が普通で、やる人は広い意味での変わり者になる。
しかし、麻雀人口が増えて多数派になれば、麻雀をやる人が普通になり、やらん人が変わり者いうことになる。
そんで、そうなると環境が変化するんよね。
麻雀荘が立ち並び、それに関連した産業が発達することになる。
私らのやりよるエコな生活も灰の農業もやる人はおらんけえ、うちらは相当変わり者いうことになる。
みんなしてうちらみたいなことをやるとどうなるか、それはそれで薪の確保を巡って相当熾烈な争いになる。
大多数の人にとって薪が資源になりよるけえ、伐採木ゴミやセイタカアワダチソウなどがなくなり、薪運搬のためのインフラの整備をやらにゃいけんようになる。
また、燃やした時の煙で空気が煙たくなり、ハゲ山になるとこも出て来よるじゃろう。
灰の分別とかやって、カイアポに最適なもんの需要が高まり、いや全員がカイアポをやって成功させたら、カイアポ自体が暴落して商売にならんくなる。
灰の比率や育て方を企業秘密にしてやることで、うちらにとっての利益や強みとなる。
農業なんてそんなもんよ。
誰でも作れるもんを大量に作っても、他にいっぱいあれば価格は下がり、豊作貧乏になる。
近所の農家が、米を作ってもほとんど利益が出ず、人を雇うたら赤字になるって言うとった。
薪ストーブに使う伐採木ゴミも、うちらが使う分をかっさらってきて使う分には、ほとんど環境に変化はなく、タダの燃料でうちらが潤う。
カイアポの大量生産も、うちらだけがやる分にはほとんど環境に変化はない。
そんで、その希少性からうちらが潤う。
じゃけえ、うちらと同じことをして潤い、環境に変化を来さんいう人口比率は確実にある。
しかし、増えてきて商売のバランス、あるいは環境のバランス、社会のバランスまで変わるようであれば、それは方向転換した方がええね。
人がやらんことの中に活路があり、その中に次の活躍の場は眠っとる。
一般人の逆を行くことで、一定比率でしか味わえないうま味がある。
そういう関係を知っとくべきではある。