人間の動物的属性は消費と酸化。
食べ物を消費酸化し、資源も消費しとる。
これはもう全員がそうじゃ。
子供の頃を思い出すと、たらふく食べてトイレででかい方の用を足すと、一仕事終えた~いう満足感があった。
小さい頃はそれが仕事であり、人間として最初にやることなんよね。
本人には満足でも、やがて何の仕事にもなっとらんことに気づくことになる。
また、単に消費だけでは、いずれ尽きてしまう。
尽きないようにするにはそれとは逆行することをやらにゃいけん。
それは資源を生み出すこと。
つまり農業で生産することなんよ。
消費の反対は生産。
しかし、この生産が誰でもできるわけでもない。
人間は消費していく中に自己発揮があり、どう消費したかを仕事として自慢しとる感がある。
消費の中でのどうのこうのでは、大きな目で見て果たして誉められたことなのかって思うことがある。
実際に作付けをしてみて、たわわに実ったそれを収穫した時に、なんとも言い様のない満足感がこみ上げて来よる。
ああ、これだけのものを作り出せた。これだけよう実ってくれた。
勿論最低限のことはやった。
しかし、それにしても実る植物の力なくしては、豊かな実りはあるまい。
人間と植物の共同作業じゃ。
それでできたもので、少しづつこれまでの食卓を置き換えていくと、それまた満足感と達成感がでかい。
そしてこれまでの食卓を思う時、いかに多くの食材を食べてきたかを知ると同時に、いかに恵まれとったかがわかる。
今食べとるものは、間違いなく誰かが作ったもの。
相当多くの人に支えられとることに気づく。
自前でいっさいがっさいをやるとなると、そこにはいろんな苦労がある。
農業の力は偉大じゃのう。
できたもんを美味いか不味いかで残したり捨てたりしとる。
贅沢でばちあたりじゃのう。
こうした農業の力の前には、私らの力などなんと小さいことよ。
食べ物なくしては活動できん。
食べ物を生産することは、努めてやり方を覚えて実行するしかない。
どんな簡単な作物でも、たくさん作れるようになった人は、それだけで立派なもんじゃ。
そういう気持ちで農業を見てほしい。
人間完成への一環。