福島原発事故の放射能の雲プルームの第一陣飛来と、そこから逃れるための西日本への逃避行から今日で13年になるんよね。
当時の上司の横暴への報復として有給を限界近くまで取りまくり倒し、月のうちの半分以上が休みいう異常なスケジュール。
風向きを心配しながら、いやしかし北風が福島からの放射性プルームを関東に運んできた。
関東地方には、遮る山がない。
青くなって、西への逃避行を決行することになる。
ひとまずは名古屋へ逃げて、さらに事故が深刻化するなら、徳島あるいは広島さらに福岡まで視野に入れてとにかく東京を脱出。
仲間内にとりあえず逃げるように指示を出し、新幹線で名古屋へ。
着の身着のまま、名古屋の駅前のミユキホテルへ転がり込んだ。
Yさんも、私の呼びかけに呼応して豊橋へ。
その後、特別快速で名古屋まで来て合流。
必死の放水活動を、連日食い入るようにテレビで見とった。
あの時思うたのは、仕事を持つ人のいざと言う時の動けなさなんよね。
その後関東には、3回ぐらい放射性プルームが飛来。
そのうち、雨でたたき落とされた放射性物質でずぶ濡れになった菊池さんが、半年強で多臓器ガンで帰らぬ人に。
その月には、なぜか福知山と徳島と大分への旅行を決めてあった。
これは天の導きとばかり、その旅行をその通り決行した。
おかげで関東に飛来した放射性プルームは、全部回避できた。
あの時、4号炉にあった使用済み燃料プールが損傷したら、横浜ぐらいまで人が住めんようなことに。
結果的に数年後、その使用済み燃料棒は安全なとこに移動されたものの、最悪のシナリオはいつ起きてもおかしくなかった。
その後姫路へ移転し必死に農業をやって、ようやく何かあっても飢えないぐらいのもんは確保できるようになった。
あの時の恐怖はかつてなかったレベルで、自衛の備えを真剣に考えるようになったんよね。
身の安全や食の安全を真剣に考えざるを得ない状況から、肥料を使わずに作物を作る方法を確立させていった。
あんな思いは、もう二度としたくない。
あの事故で亡くした友たちも、残念でならんのよ。
その後のことを考えると、見えざる力に支えられとることはわかるものの、しかし完全ではないのう。
試練は人を強くするものの、逃げられんかった人らは気の毒じゃのう。
ともあれ、福島原発はまだフタが開いたままじゃけえ、早く解決して欲しいもんよね。