70回目の原爆忌を前に、長崎市の平和公園で原爆の犠牲者を追悼する「平和の灯」が行われた。
今日は長崎原爆の日じゃのう。
本来、小倉に投下されるはずが、当日曇天で長崎になった。
それが長崎と小倉の運命を分けた。
こういう場合、もう運命と言わざるを得んね。
どちらの人達も、個人レベルで原爆に対してどうしようもなかった。
しかし、個人レベルで変えられる部分は変えにゃいけん。
原爆とは違う意味での原子力災害、原発事故により、福島や近隣はゆっくり被曝する危険な環境。
これはまだ原爆よりは避けよう逃げようがある。
逃げれん人達はそれまでじゃが、逃げれる人は逃げ、汚染食材に気いつけながらってやるのが正しい。
原爆の投下の情報は、限られた者しか知り得なかった。
じゃけえ、広島長崎在住でこれを避けるのは難しかったじゃろう。
それでも大本教の出口王仁三郎の予言を信じて移住した人達が、現実に助かっとる。
情報がもたらされ、助かった人達は少ないながら、このようにおるはおった。
あの時代の救いの道は狭かった。
しかし、今の時代、福島近隣から逃げる道はわりと広い。
人生は選択の連続じゃと思う。
どれだけやったかいう指標も大事なんじゃけど、その前に何を選択したかの方がでかい。
知り合いのインチキ放射能手抜き測定野郎、n崎n詐欺は、年間法定被曝限度量の1ミリシーベルトを超えた場所を安全と言い、福島の地魚をたらふく食べまくり、安全の根拠を聞いても答えない。
嘘と出任せに基づく主張じゃけえ、答えられん。
n崎はゆっくり被曝する道を選んだ。
逃げて邪気抜きせえって言うた私に、何を思うたか逆ギレし、福島の放射能を一緒に測定せにゃ決闘とほざく。
バカな障り持ちじゃが、知り合いのよしみで、よかれと思うて言うたら狂うたリアクション。
本人の望み通り、被曝して死んだ方が世の中のためかもしれん。
天の示す道を行く者は栄え、背く者は滅ぶ。
n崎の滅びの選択は愚かじゃが、それを信じるやつらはもっと愚かじゃ。
危険は逃げれるなら逃げることが正しい。
逃げれて逃げんなら、その被害を受ける。
人は助かるべきは助かる。
助からん場合はそれが運命じゃ。