昨年末のぽんたの死は、仲間内を少なからず悲しませた。
しかし、その死は次の展開への呼び水になる可能性を秘めとった。
私の技や理論の中には、死に直面したことがないもんにはできんようなことがある。
ぽんたは死病を得て死に直面し、会得していった。
ぽんたのことを知らん人からは、その死は単にご愁傷様ですいうぐらいのもん。
しかし、仲間内では前やんやたけした君はじめ、こぞって惜しみまくり倒しております。
それだけ、その存在がデカかったいう話。
その衝撃的な事実は、皆に大きなショックを与えて落胆させております。
さてそのことで、この死に直面するいうことを、死病を得ずしてなさしめることが仲間内にはできそうなんよね。
死に直面するいうことは、どういう感覚を生むじゃろか?
まず、どうなるかわからんいう不安や恐怖があり、あとはあの世で再会するまでしばらく会えんようになり、会話ができんようになる寂しさ残念さがある。
そこらへんを上手くコントロールできる者があれば、今回のぽんたの死を活用してジャンプアップできるんよ。
それは次の勉強会で言おうかのう。
字面だけじゃわからんわ。
私はガキの頃から虐待で死線を彷徨うたことがある。
そのために謀略などが育ち、難問を切り抜けてきた。
死に直面するような危険なことは、ないならないで越したことはないんじゃけど、それなくしては到達できん領域もあることは事実。
平和な環境で育った人には、至難の業なんよ。
しかし、それでも到達したいいう人がおったら、そういう道筋があってもええんじゃないんかねぇ。
人は必ず死ぬ。
しかし志半ばで亡くなるのは、未練や後悔が残る。
死それ自体は仕方ないんじゃけど、まだもう少しだけこれだけはやらせてくれ、それまで待ってくれいう思いが残る。
特にうちらの仲間内は、私が生きとるうちはやはり生きて話を聞きたい学びたいいう人ばっかじゃ。
ぽんたがそうじゃったようにのう。
ぽんたは、救世運動がダメになった以上、なるべく六崎さんの技をたくさん持って帰りたいいうことは健康な頃から言うとった。
大事な局面は、必ずハズさんように来た。
他の面々も、そういう意味で命は惜しいはずじゃ。
ともあれ、その惜しむ心といろんなもんを加味して、皆を死に直面するような感じにしてみようと思うんよ。