過去の学者などが、かつて勉強するために使うた蔵書がある。
それらがかなりの数で、亡くなった後に個人図書館みたいになっとることがある。
カルト教団Kの教祖も、そういう感じで蔵書をコレクションしとるんよね。
ただ、この教祖はネットが使えず、携帯すらなく当然スマホもダメ。
さらに、パソコン上での電子書籍もダメとか。
ある意味化石であり、30年以上アップデートしとらんまま、固定電話と本からの情報しかない。
私が学生時代に思い描いた映像による知的鍛錬、そのためのビデオライブラリー化、いやしかしそれもネットの動画普及でコレクションする意味自体がなくなった。
今やYouTubeその他の動画サイトで検索することで、いろんなもんが学べる。
そうした意味でも、必ずしもそういう映像を保存保管しておく必要もなければ、管理する必要もない。
本以外の情報ソースが発達したおかげで、本の占める部分が、縮小した感がなくはない。
しかし、それではその古式ゆかしい現物の本なんじゃけど、それがまるっきり要らないかいうたら、そんなこともないのう。
本は、それ自体が文化財としての価値があったりする。
カルト教団Kの教祖がポンコツで本しかダメであっても、かと言うて本自体がダメいうわけでもない。
文化財としての本を所持して管理すること自体は、以前ほどの重みこそないにせよ、全くの無価値でもない。
現物の本はアナログではあるものの、アナログの中にも価値あるものはある。
アナログしか使えないバカ教祖がバカなだけで、そのツールである本は相応の価値がある。
管理できるのであれば、私も蔵書コレクションを残しておきたいって思うんよね。