植物が上陸してから、金星人が地球に住み始めました。
ていうか、地上が丸裸では、住むに住めんけえのう。
マツバランが上陸して、種類が増えてからになるのう。
マツバランは、茎しかないシダ植物。
後に厄介モノになる木性シダがなければ、家も建てられん。
最初に金星人が住み始めた頃、トンボは1メートル、ゴキブリはスリッパ大、さらに同じような巨大な昆虫やらそれに近い節足動物がうじゃうじゃ。
水辺には、肺魚や巨大なウーパールーパーみたいなもんが、これまたうじゃうじゃ。
魚は甲冑魚。
生活はしにくく、危険はたくさん。
いつ食われて死ぬかわからん状況。
そういう意味では、インドの釈迦時代に似た感じなんよね。
釈迦時代は、野獣や大蛇、毒蛇、サソリと危険な環境。
デボン紀も釈迦時代も、いつ死ぬかわからん厳しい環境。
その中で、世の厳しさや命のはかなさを考える思想ができてきたんよね。
諸行は無常であり、明日はどうなるかわからない。
たとえこの世界が厳しくても、来世があり、そこでの幸せを考えるべきである。
この世界は仮の世界で、あの世が本来の世界。
まあこういう環境では、そんな厭世的な思想になってもやむなしと言えるじゃろう。
デボン紀に、こうした考えのもと、金星人は危険に怯えながら暮らしとった。
仏教の思想に親和性のある人は、この頃の金星人やベータ人であると言える。
キリスト教にはオリオン人が多いんじゃけど、それは、デボン紀や石炭紀の厳しさや命の危険を経験しとらんけえ、仏教の厭世的な思想に親和性がないんよ。
やがてベータ人が来て、近代的な武器で危険な生き物を駆除し、あるいは食糧の一部にしたりしたんじゃけど、やはり人類の歴史は自然との戦いが長かったと言えるじゃろう。
ジュラ紀にペガサス星系からゼウス系が来るまでは、地上では楽しむいうことよりむしろ環境と戦うて修行するいう要素がでかかったように思うんよね。
弱い金星人ならではの、世をはかなむ考え方。
それは環境が厳しければ厳しいほど、醸成されていったと言えるじゃろう。
そこに一面の真理はあるんじゃけど、それだけではこの世を生きる力は弱くなる。
仏教には、そういう面はあることも知っておくべきなんよ。