最近、交流会でヨガサークルの人と知り合いになったんよね。
その人とは、気功修行の基礎的な部分を共有しており、そうした意味で初対面で話が盛り上がったんよね。
しかし、まもなく大きく落胆することになった。
結局、修行者として固まってしもうとるんよね。
ヨガサークルの師匠は韓国人で、その人に心酔しとるんよ。
まあそりゃあね、尊敬するのはええじゃろう。
それがなきゃ、そこで修行いうことにもならんじゃろうけえ、まあまあそこは否定せんのよ。
しかし問題は、絶対視しとるんよね。
私と会うた時、オーリングや邪気抜きなどを通して波動のパワーを実感した。
体感だけは、かなり話が早いんよね。
しかし、問題はそこから先なんよ。
私をヨガサークルに引き入れようと、すごい勢いなんよ。
は?
あのねぇ、そんなヨガとか気功とか、そんとな概念を超えた世界に波動強化の仕組みがある。
波動の強大なパワーがあって、その効果の方が明らかにデカいのに、なんで先祖返りせにゃいけんのじゃ?
大学教授に、小学校に入れみたいなこと言うとるようなもんよね。
波動の技による邪気抜きをやってみた時には、さすがに真面目に修行をやっとるだけあって、邪気は少なかった。
しかし、気功やヨガでは完全に散らせんのよ。
それを根こそぎにできる私の技こそ、新規軸の技なんよね。
そういう意味で、モノの優劣がわからんのよね。
自分が体感してよかったんで、それだけになっとるんよね。
小学生からすると、大学生も大学教授も高校生も、どういうレベルかわからんのよ。
レベルが上の人からは、下の人はわかるものの、逆はわからんのよ。
既存のもの集めただけのヨガの先生と、全くゼロからより精度の高い新しいもん作った私とどっちがステージとして上なのか?
まあそういうことなんよ。
修行することはええこと、ヨガをやることもええこと。
しかし、それを超えるもんが出た時に、そこは考えるべきじゃろう。
私にとって、既存もんは魅力を感じない。
学生時代に修行した高藤聡一郎の気功、それはその時期に魅力を感じたんよね。
会うたこともない高藤聡一郎なんじゃけど、会うことができたら語らいたいことはある。
しかし行方不明であり、今更どうでもええわ。
ヨガサークルの師匠の韓国人も、学生時代ならあるいは魅力を感じたかもしれんのよ。
しかし、今高藤聡一郎に魅力を感じんのと一緒で、あの時期その韓国人に弟子入りしたとして、未だに信奉しとるかいうとそうでもないじゃろうね。
ともあれ、修行のためのヨガサークルであり、修行のためのそこの韓国人師匠じゃと思う。
しかし、それがいつかしら韓国人師匠のための動き、ヨガサークルのための動きになってしもうたら、それは本末転倒なんよね。
そこに固執する以上、そこから伸びることはない。
また、そんとなレベルを超えた私に誘いをかけて来ること自体、私の修行の邪魔でしかない。
ドラゴンボールで言うと、桃白白とベジータぐらいの差があるんよね。
まあやはり、修行でも頭がコチコチに固まってまうと、それはそれで老害よね。
うちらの例えばオルゴンMあたりに誘いをかけたとしても、何言うとるんねで終わってしまうじゃろうね。
ともあれ、熱心なだけにめんどくさい。
学生時代の私に毛が生えたぐらいのレベルでは、もはや話にならんのよ。
なるほどね、今後はそういうシチュエーションいうのも、うちらは考えにゃいけんのよね。