数日前、分からず屋とやり合うて考えた。
男の40歳、その人が何者か?
それは能力が雄弁に本人を物語る。
何ができるかが、その人がそれまで積み重ねてきた修行の成果と言える。
私の場合、何だったんじゃろうって振り返った時大きくは、いかに善人を治し、いかに悪人をボコボコにするかの人生だったやに思う。
技や能力もそのためのもの。
やり合うた彼の能力は、それはそれなりに秀でとることは認める。
しかし全く羨ましくも何ともない。
なぜか?
それは私が望む方向性の能力じゃないけえのう。
私の尺度、善人をいかに助けるかの範疇に合致していない。
自分の目指さぬ方向性の成功は喜ぶに値しない。
たとえ拙くとも、たとえ認められずとも、私の望む方向性での成功が私の満足する自分なんよ。
彼の能力もある意味大したものである。
しかしそれは彼が長年かけて目指したもの、その成果じゃ。
まあ能力があるいうことは、幸せじゃ。
諺でもあるように40の愚物は本物の愚物なんよ。
40になって自分の能力を誇れんやつは、男として愚物なんよ。
私の能力は特殊能力じゃけど、自分をほめることができる。
目先の金にはならんかもしれん。
しかし満足しとる。
また、満足しつつ、更に上を目指す。
能力は魂の民族に起因する特徴も出る。
そういうことはあっても、私の根底にあるのは、いかなる能力も善人を救えぬ力でなければ意味がない。
私と同じベータ人であっても、人を救えぬベータ人など必要ない。
出身が悪性民族でも善なる方向性に努力する者の方がよっぽど価値がある。
修行や学習で身につけた力は、基本的には他人のために使うべきじゃ。
私は敵を倒しながら精進してここまできた。
心身に受けたダメージも、いつしか癒えた。
40過ぎても圧倒的に若い。
私の50も60も若いであろう。
70でも80でも若いかもしれん。
本来私は一匹狼じゃが、いつの間にか人が集まり一匹狼じゃなくなった。
これからも支持者は増えよう。
死んだ後も支持者は増えよう。
今後も目指す方向性は同じ。
結果は天のみぞ知る。