正しいものでも、過ぎ去ったものに固執すると障りになります。
端的な例が、カルト教団Kによる救世運動なんよね。
かつて正しかったものであっても、現在では邪気になっているものなので、固執して信仰すると人生が破壊されます。
そして、その呪縛から逃れられん人がカルト教団Kの
盲信者として残っとったりする。
未だに盲信者ならば、その運命は狂いまくっとる。
それが、一番わかりやすいことなんよね。
しかし、カルト教団Kに入って活動しとらんにしても、救世運動参加予定でその計画に引きずられとる場合でも同じなんよ。
救世運動前の生まれる前の世界において、その期待感と共にそこに参画すべくその理念を自分自身の中に落とし込んどった。
カルト教団Kにこそ出会わんかったにせよ、その救世運動の目的である地上天国仏国土を実現するいう理念、それをそのまま持ったままその実現が無理になった後も持ち続けるケースもある。
かつてあった地上天国仏国土を実現するいう理念、それは今はもうない。
今はもう過ぎ去った理念、それをまだあるつもりで追いかける限り、絶対に辿り着けんのよ。
絶対に辿り着けんものを追うことは、天意に反する行為なんよ。
天意に反することは、その反作用が起きる。
そこに障りが生じて、人生を破壊していくことになる。
それで、その周囲をも狂わせていくんよね。
そうした光が過ぎ去った後いうのは、恐ろしいのう。
それで、その過ぎ去ったことに気づかず、そのまま追い続けた結果もそのまま奈落の底。
かつて正しくとも、それがもはや存在しないもしくは悪になっては、その反作用があるいうことです。
それにそのまま固執すると、やはり恐ろしい結果になる。
法則は、事情など加味してくれずそのまま働くんよね。