救世運動参加理念保持者は、通常の人生を生きることと合わせて二足の草鞋を履く修行がテーマなんよね。
しかし私の場合には、さらに武将として殺し殺されのカルマの解消もテーマとしてあったんで、三足の草鞋を履く修行になったんよね。
救世運動の成功を夢見ながら、それが成就すればなんとかなるいう期待から、カルマの刈り取りの計画をマシマシにして地上に誕生。
実家での虐待とその後の苦難を考えると、前半生の苦しみはほぼカルマの刈り取りに費やされたことがようわかる。
それがある程度すると、そういう極端な苦しみはなりを潜めて、違う意味合いでの苦しみに変わっていったんよね。
能力開発とか自由獲得のためとか、なんかそういうプラス方面の苦しみなんで生産的なんよ。
カルマの刈り取りの苦しみは、本来なら地獄とかで苦しむべきもんなんよ。
しかし、トータルで合格しとれば天上界には帰れるんで、単位を持ち越して進級したようなもんなんよ。
私も大学の時に一単位だけ持ち越した経験があり、十単位落とさんかったら進級自体はできた。
しかし持ち越し単位がギリギリで上がると、次の進級の時にかなり苦しくなり、どこかで留年いうことになる。
私のカルマも、殺したくて殺したわけではない戦いでも、実際に殺された側の人らの感情は穏やかではないんよ。
転生のどこかで、怨みを晴らさんと狙うんよね。
それで出会うてひとしきりそれが晴れてみると、逆に気心が知れて親しくなったりもした。
前やんからしたら、濃い人生ですねってなるんじゃけど、それがあったんで今回の人生の経験値はデカいじゃろう。
ともあれ三足の草鞋を履くことになったことで、パワーが分散されまくって、各々にかける潜在意識の思考力は半減どころでは済まんようなった。
救世運動参加理念のこともカルマのこともぶっちぎった今、その稀有な経験値は得難い何かを獲得したと思う。
救世運動参加理念は、その救世運動の失敗がわからんかったら意味がなく危険です。
話戻って大学時代でも、単位を落とさずスンナリ進級した者と、一時持ち越し単位ギリギリまで追い詰められて翌年全部消化した者とでは実力のつき方が違うじゃろう。
追い詰められた方が、いろんな意味で経験値マシマシ。
まあそんな感じ。
カルマ刈り取りがマシマシのモリモリで、さらに救世運動ってどんだけよ。
救世運動参加理念のシミュレーションも、とにかくこういう意味合いでも上手くできたら経験値マシマシになる。