私の技を習得しよういう人らで、それに向けたドラマがいろいろある。
本人たちは必死なんじゃけど、人によっては無理あるいは不得手な領域が、どうしても出る。
それに関しては、もう仕方ない。
例えば、死にかけるなど、命の危険に脅かされることがあって初めて会得できるような技は、実際にそういう経験かそれに準ずる恐怖やストレスを味わう以外にない。
群盲象をなずいう言葉がある。
目が見えん人らに、象を見てもらうことはできん。
そこで象にふれてもらうわけなんじゃけど、いろいろな意見に分かれる。
ある者は鼻を触り、象は軟らかくて長いホースみたいなもんと言う。
ある者は耳を触り、薄くヒラヒラしたもんと言う。
またある者は牙を触り、ツルツルした長いカーブしたもんと言う。
またある者は腹を触り、ゴザのようなもんと言う。
またある者は足を触り、太くて丸太のようなもんと言う。
このように、象の属性の一部をもって象の全体のように思うことは、正しいとは言えない。
このように、経験がないことに関しては、どうしてもわからんことってあるんよ。
これは善悪に関係ない。
例えば、善人である前やんやぽんた、他の仲間内で幼少期虐待されたことのない人にはわからん感覚ってあるんよ。
それが悪人であるセシウムカルトn崎は、私と育った環境が似とる関係で、話が通じる部分がある。
まあそれで心が鬼になりよったけえ、意味がないんじゃけどね。
ただ、わからんはわからんなりに、聞いたことはムダにはならん。
さきほどの群盲のうち、角膜移植で見えるようになった人がおるとする。
そうすると、あの時触りよった象、私は足を抱えとったんじゃとなる。
しかし、改めて見てみると、象ってこんな姿で顔はこんなじゃったかって思うんよ。
触りよったことで認識したことが、まるっきりその通りでないにせよ、まんざらムダでもなかったことがわかるじゃろう。
そういうことはぽんたに言える。
以前のぽんたにはとうていわからんかったことで、今のぽんたには体得できとることがある。
以前はスルーしとったことが、今改めて納得できとる事実がある。
六崎さんは、あの時から知ってたんですねってぽんたが言うその言葉通り、私は知っとって、それを言うてはおった。
しかし、最初の時点でぽんたがスルーしとったことは、当時のぽんたにはわからず、時を経て理解できたいうことなんよ。
私としては、あの時言うたんじゃけえ、もうわかっとるいう頭でおったりすることが多かったんじゃけど、そうでもないいうことなんよね。
そんで、そういう一皮むけた状況でないとわからんことってあるんよ。
深海におるちょうちんアンコウが、浅瀬に上がってきたとする。
それを見た浅瀬の魚がその姿を見て、おまえそんな格好してバカじゃないんか?って思うことがあるとする。
そんなヘンテコなちょうちんで、エサが獲れるんかいみたいに思うことがあるとする。
しかし、それでこそアンコウは生きとるんよ。
浅瀬の魚は深海に行ったことはない。
じゃけえ。深海での生き方がわからん。
しかし、浅瀬で見たアンコウの姿、浅瀬ではバカにしとったとして、深海へ行ってみて初めてその格好の理由がわかるんよ。
私の住む世界は謀略の世界。
私に対抗してセシウムカルトn崎なんかがそのやり方を真似て、戦略面でどうのこうのいう講釈をタレたとする。
講釈をタレるのは勝手で、そのことで悦に入っても結構。
しかし、本物の謀略家と真似っこのにわか作りが謀略で勝負したとして、あのバカの弁としてマジ勘弁と思ったとかいう話。
今や謀略に関しても、真似っこn崎なんかよりもぽんたが上。
しかし、それでもぽんたでn崎に致命的な手が打てるかいうたら、そこまででもなかろう。
まあそういうことで、技には極めていくにあたり段階がある。
技量は積み上げていく限り、積み上がる。
必要概念がないと無理なことは、やはりそれまではどうもならん。
しかし、情報を集めておれば、必要概念が手に入ったその時に、血肉になって活かされるじゃろう。